CSではねとびを見ながら(堤下プロポーズ)。
電子辞書に入っている『人間失格』を1日未明に読んだ。
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
世間とは、いったい、何の事でしょう。
人間の複数でしょうか。
どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。
けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意思で動く事が出来るようになりました。
ここ一年くらい、企業というものや、オトナの社会というものに強い恐怖感、自分とは別個の集団であるという言い知れぬ感じ、そういうものを感じてきた。 これはうまく言い表せられないけれど、彼らへの恐怖を言い表せないということが、言い知れぬ恐怖・拒絶感を生んできたのだろう。やつらは「得体がしれない」と思っているんですね。
だから、ドキュメント72時間のような、酷道マニアのような、そういう世間の主流を外れたテレビが好きになっていった。
それが、「所詮個人だ」と思うだけでどうにかなるとは思わない。思わないが、立ち向かう、その勇気を起こす、ひとつのチャンスにはなるかもしれない。そう思った。