最近、三島作品を読んでいる。
高校の時に金閣寺に失敗して以来だ。

とは言っても、特に理由はない。高尚な感じがするからだ。人が中学高校の時点で済ましてきた(かもしれない)ことを今になってやっている、ただそれだけ。

雨のなかの噴水
(中学の時、教室に置いてある中学生向け短編集的なのに入っていて朝読書の時間に読んだことある。ちなみに、同じ本に入っていた「メリー・ゴー・ラウンド」は忘れられない。三浦哲郎という人の作品らしい 読書の時間に読む本 中学3年生

海と夕焼

命売ります
(市立図書館で、もうちょっと読み残しがある。急いで読みたい。これサイコー) 

憂国
(今日は帰りに(意を決して)、三島自選短編集『花ざかりの森・憂国』を買った。それ所収)

今日はほかにも、志賀直哉「城の崎にて」、川端康成「伊豆の踊子」を読んだ。あと、金閣寺や雪国にも目を向けたが断念した。 

あと、新潮から出ている文豪ナビの三島由紀夫にいい言葉があった。29頁、「仮面の告白」についての部分。
成長とか成熟とか、しなくてもよいのに、人は別の人格へと脱皮したいと願う
そうか、しなくてもいいんだ。
まあ、成長・成熟って、なんだかそれ自体で「よい」ものに思えるけど、でもよくよく考えると、成長・成熟も何かの手段なんだよね(目的って、よき生とかかな?)。

そう考えれば、よき人生とか、幸せをほかの手段で達成できる、より効果的に達成できるなら、別段、成長・成熟を追い求める必要ってないよな。うんうん。


三島由紀夫さんって、作品の幅が広いですよね。金閣寺や憂国みたいなのを書くと思えば、今で言うラノベみたいなのも。不道徳教育講座も。そんで詩や戯曲、かと思えば肉体改造から音楽。そして最後にはあれですからね。

作家の人生を理解することで、作品の理解がより深まる。もっと言えば、作品に否が応でも作家の生き様が反射してしまう。それに目を向けずにはいられない。そういうのが「文豪」っていうんだろうな。



という偉そうなことを月光を流しながら書きました。